わたしも白川静の文字学のファンの一人である。若い頃、白川静が監修した『漢字類編』を鳥肌を立てながら読んだものだ。しかし、文字の成り立ちには物的な証拠がなく、どんなに状況証拠を積み重ねても実証は難しい。文字の成り立ちの解釈には色々な説があり、白川静の文字学も一つの説に過ぎない。
例えば常用漢字表の最初にある〈亜(亞)〉は、『説文解字』では《みにくい。人の曲がった背中の形に象る》。加藤常賢の説では《古代の四阿の明堂と言われるものの原始形で、四阿の明堂は地上の建物であるが、これは古代の地下穴居の室の形であると考える。中央の四角は竪穴であり、その四方に入り口を作って四室のある形である(『漢字の起源』)》。藤堂明保の説では《建物や墓をつくるために地下に四角く掘った土台を描いた象形文字で、表に出ない下の支えの意から、転じて、つぐことを意味する(『学研漢和大字典』)》。白川静の説では《象形。古代中国の、王や貴族を埋葬した地下の墓室の平面形。正方形の墓室の四隅をくりとってある形である。四隅をくりとるのは、そこに悪霊がひそむ恐れがあるからであろう(『常用字解』)》。
このように一つの字をとってみても諸説あり、他に中国の研究者の説もある。漢和字典や文字の成り立ちを書いた本には、誰の説なのかを記していないものが多くて困る。字源に諸説あることを知らない読者がそれらの字典や本を読めば、そこに書いてある字源説が唯一のものだと誤解するだろう。誰の説なのかを記さないのであれば、字源を載せるべきではない。
誰の説かことわって載せている字典の例。
◎三省堂から出版されているいろいろな漢和字典。
基本的に『説文解字』の説しか載せていない。誰の説かを記さずに掲載するよりよほど良い。三省堂の見識の高さ。
◎『漢字の起源』加藤常賢著。当然だが加藤常賢の説が載っている。藤堂明保も同じ題名の単行本を出しているのでお間違えなきよう。
◎『学研漢和大字典』藤堂明保編。藤堂明保の説が載っている。藤堂氏の死後に出版された『学研新漢和大字典』は追加された約9000字については藤堂氏の説とは言い切れないので,ボクは旧版を参照している。
◎『字統』白川静著。当然だが白川静の説。
◎『新潮日本語漢字辞典』。字源に白川静の説を採用することを宣言している。