2010年11月10日
「來」はどのように「来」になったか
左ハライから右ハライにつながるものは、早書きすると横線になります。
「大」の「人」の部分は「L」のようになったり「亠(なべぶた)」のような形になったりします。
上の例でいうと「大」が「土」のようになります。
「因」の中の「大」が
「大」→「土」→「工」→「コ」
と変化して「因」の異体字ができたのではないかという推測は拙著に書きました。
「來」の「人」は「亠(なべぶた)」のような形になり、それがつながって「来」になったのでしょう。
上の史晨後碑の建碑は169年、禮器碑の建碑は156年ですから、同時期に「來」と「来」が使われていたことになります。
「人」が「亠(なべぶた)」のような形になる例にはもっと劇的なものもあります。
このように「はつがしら」が「業」の上部みたいになります。
赤で表したものが「亠(なべぶた)」みたいになったんですね。
※これは字体の説明です。道因法師碑が鄭羲下碑になったのではありません。
「殳(ほこづくり)」が「攵(のぶん)」になるのはまた別の機会に。
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「發」について、鄭羲下碑の形のものは、魯峻碑のような形の隷書から出来たのではないかな。と思ったのですが、どうでしょうか……。
最も古い例は居延漢簡みたいです。
しかもその同時期に、草書化して草冠の略体のようになっている字もあります。
活字があると、どうしても書写体に分けられてしまうことがあります。これが行書になると書きやすさが顕著になると思います。
うまく話がまとまりませんが…。
印刷の字体に手書きの字体を取り入れてしまったために、違いがあやふやになってしまった。
印刷の字体と手書きの字体は違っていて良いと思います。