2011年02月18日

高岡重蔵さんに聞く−−猪塚良太郎さんのこと


期 日:2011年2月16日
場 所:嘉瑞工房
参加者:高岡重蔵さん、高岡昌生さん、小池和夫さん、上田宙さん、立野竜一さん、大熊肇

1900年(明治33年)、猪塚良太郎生まれる(1901年・明治34年生まれとも)。
猪塚良太郎が経営していた「三友舎社交印刷店」(以後「三友舎」と表記)の前身は「一志舎」という印刷所で、明治時代に創業。弘道軒清朝のオリジナルも所有していたとおもわれる。
「一志舎」の経営者が猪塚良太郎の父から印刷所を担保に借金をし、返済できなかったため「一志舎」は猪塚良太郎の父の所有となり、店名を「三友舎」と改める。
皇室の午餐会、晩餐会のメニューは当初は楷書体で印刷されていたが、『秋山徳蔵メニュー・コレクション』を見る限り、明治27年(1894年)から明朝体に変更され、それ以後は楷書体で印刷されたことはない。理由は字体に問題があったからだという。

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明治25年のメニュー。楷書体(弘道軒清朝ではない)で印刷されている。(『秋山徳蔵メニュー・コレクション』より)

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明治27年のメニュー。明朝体で印刷されている。(『秋山徳蔵メニュー・コレクション』より)

1930年(昭和5年)頃、「三友舎」が皇室の午餐会、晩餐会のメニューの印刷をはじめる。その後、皇室の午餐会、晩餐会のメニューは「三友舎」のほぼ独占状態 になったという。「三友舎」の特色は戦前、アメリカから購入した欧文活字の美しさにある。和文は明朝体を基本とした。招待状やメニューの印刷は急を要するので、招待状、メニュー台紙は「三友舎」でストックしておく必要があった。ストックがなくなりそうになるたびに、宮内庁から「菊 の御紋」の金版を借り、千部、一万部単位で金箔押ししてストックしておいた。猪塚良太郎は「金箔押しした台紙のストックが負担だ」ともらしていたという。
1940年(昭和15年)、「欧文印刷研究会」結成。当時40歳だった猪塚良太郎が20歳だった高岡重蔵を誘った。その後、猪塚良太郎と高岡重蔵はお互いの仕事場を訪ねあい、四方山話を重ねた。猪塚良太郎は気さくな人だったという。
※欧文印刷研究会……馬渡務(印刷雑誌社)、本間一郎(印刷出版研究所)、木村房次(二葉商会)、猪塚良太郎(三友社印刷所)の四名を発起人として、井上 嘉瑞(嘉瑞工房)、高岡重蔵、伊東政次郎(一色活版所)、今井直一(三省堂)、志茂太郎(アオイ書房)、藤塚崖花(三徳堂)、祐乗坊宣明(朝日新聞社)、 渡辺宗七(民友社活字 鋳造所)、原弘(東京府立工芸学校教諭/デザイナー)の13名が創設に参加。(大日本スクリーンのサイトの「描き文字考」http://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography2/hk01/hk01_jyo3.htm

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昭和2年のメニュー。「三友舎」が参入する前とおもわれる。(『秋山徳蔵メニュー・コレクション』より)

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昭和5年のメニュー。「三友舎」が印刷したものとおもわれる。(『秋山徳蔵メニュー・コレクション』より)

戦前、「三友舎」が印刷したメニューを見本として配り、その中に皇室の午餐会、晩餐会のメニュー内容が混じっていたために、宮内省大膳職主厨長(通 称:「天皇の料理番」)・秋山徳蔵の逆鱗にふれ、その後、秋山徳蔵が引退するまで、「三友舎」は皇室の仕事ができなったといわれている。
1945年(昭和20年)、空襲により「三友舎」が焼失、印刷所の家屋、印刷機、活字のすべてを失う。
終戦後、「三友舎」の跡地に平屋のバラックを建て、印刷業を再開する。これ以後、仕事はほとんど子息・猪塚栄一にまかせ、猪塚良太郎は隠居同然だったという。「三友舎」の場所は現在の虎ノ門駅の北側。
遅くとも1955年(昭和30年)ごろまでに「三友舎」の虎ノ門の店舗を売り払い、現在の神谷町駅の東側のオランダ大使館の近くに移転する。店舗は木造の 2階建て、1階が印刷所で2階が住まいになっていた。印刷機はメニュー印刷用に、動力付きの小型フート印刷機(手きん)が1台、ハイデルベルグのプラテン 印刷機が1台、座席表の印刷用に円圧式印刷機が1台。大量の活字は必要ないのでスダレだけで収納できた。大きな印刷物は刷らないので和文用の小さな植字台 しかなかった。
猪塚良太郎は浅草の「最尊寺」に眠っている。

〈関連サイト〉片塩氏の「論文」は「幻想小説」だった!http://d.hatena.ne.jp/koikekaisho/20110217/1297930967
posted by トナン at 01:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 文字あれこれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
明治25年のメニューは弘道軒清朝体だと思って撮影したのですが、思いこみでした。アップしてから気になって検証してみると違う楷書でした。
Posted by 大熊肇 at 2011年02月18日 02:56
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