2006年06月09日
「転注」とは
六書(象形、指事、形声、会意、転注、仮借)のうち、定義がはっきりしていない「転注」。
うちにある本の「転注」についての記述をまとめてみた。
100年●許慎『説文解字』叙
建類一首、同意相承く。孝老、是也。
1916年●高田忠周「六義解」『五体字類』西東書房
第五 転注
転注とは両字稀には三字を同時に作り出して、而も其の建類(オヤモジ)を一首となす。即ち其の母字が同一であって、尚且つ彼と此と意義が運転灌注せられて居る。即ち相互に意気血脈が通じ合うてあるの方法で、表裏とか正反とか向背とかの如き、全く反対せる義を両字に配具し、相対して雙完を得るなり。故に転注の文字は一字にても働きをなさざるにはあらざるも、実は相待ってその義判然とするものなり。故に転注に属する文字には、前の指事、象形、形声、会意の四義の文字を包有しているものと知るべし。
▼例として「手」をあげている。「手」は右手を書こうが左手を書こうがどちらか一つでは「手」という意味にしかならない。右手と左手の両方があるから右、左という区別ができる。そういうことが書いてあるようだ。▲
1978年●河野六郎「転注考」『東洋学報』第五十九巻三・四号
音の類似関係ではなく、意味上関連のある語に転用した場合が転注ではないかと考えた。(補記に、中原与茂九郎氏がかなり前に同じ考えを述べられていることを後で知った旨の記述あり)
1978年●藤堂明保『学研漢和大字典』学研
漢字の造字法
(五)転注文字 命令を意味する令という語が、やがて命令を出す人→長官の意に転じて、長という語と同義になったような場合をいう。県長=県令の関係が生じ「令とは長なり」と注釈できるようになる。つまり、意味の転化によって互いに注釈しあえるようになることばのことである。してみると、これは語義の転化ということで、漢字の造字法ではない。
▼河野六郎も藤堂明保もほぼ同じことをいっているようだ。「音の類似関係ではなく」というところが重要。▲
1978年●白川静「54転注について」『漢字百話』中公新書
転注というのは、許慎の『説文解字叙』によると、「建類一首、同意相承く」るものであるという。この規定を、一つの形態素が声義の上で系列をなしているものと解しうるならば、さきにあげた亦声字がこれにあたることになる。ただ『説文解字叙』にはその字例として「孝老、是也」と声の異なる字をあげていることが問題となるが、この四字は後人の附加とする説もあり、文字構成の上からも、偏中心のいわゆる部首系に対して、旁中心のこの系列を立てることが、字形学としては原理的な統一をうることになる。
▼転注とは亦声のことだといっている。▲
1978年●白川静「53亦声について」『漢字百話』中公新書
形声関係のうち、声符として用いられているものが、この系列字において一般的概念として用いられているもの、たとえば〓(徑の旁)は本来機織の縦糸を示すものであるが、その具体的な意味を離れてただ垂直にして全体を支えるものという意味に抽象化して用いられているとき、これを亦声とする。莖は花萼を支えるもの、徑は直線的な近道である。しかしいずれも経緯の経という意味を維持しているのでなく、一般的な概念として演繹的に用いられているのであるから、会意字ではなく、また単なる声符ではないという関係にある。形声字のなかで、このように声符に一貫する意義を含むものがあるとき、亦声という。
▲ではその亦声とは何か。〈1〉形声の声符であり かつ 〈2〉抽象化した意味を含むもの。▼
1982年●白川静監修 小林博編『漢字類編』木耳社
「建類一首」とは、部首字のように、字形に系列のあることをいい、「同意相承く」とは、意味も系列的であることをいう。また「孝老これなり」とは、同声でなくともよいとする例であろう。系列的であることから部首法に近いが、同じ部首字のうちにも象形・会意・形声・仮借がありうるのであるから、それは部首法を意味するのではない。建類・同意というのは、同じ文字の要素を含み、その要素が一系の文字の形義を規定するという関係のものでなくてはならない。その文字の要素を、部首と区別する意味で、かりに形態素とよぶことにしよう。その形態素による系列字が、転注である。
たとえば、侖は部首字ではない。しかし侖は、「複数の、相対立するものの、統一体」という基本義をもつ。そのような関係で人間関係を示すことを人倫、言議の上では論、波紋の広がりでは淪、糸をより合わせる綸、両輪相対する輪のように、一系相承ける関係にある。これは部首法をとる『説文』において、別の系列を指摘したもののようである。(中略)部首法的にいえば、侖や兄に従う字は、それぞれ形声にして亦声という関係となる。
▼部首ではない形態素のこと▲
1984年●白川静『字統』平凡社
「建類一首」とは部首を建てる意で、これはいわゆる限定符的なもののほかに、意符を主とする文字系列によって、字の構造をみようとするものであろう。(中略)眞は顛死者を示す字で、その呪霊を慰撫するための儀礼が鄭重に行われたが、〓(ウ冠に真)、填、鎮、慎、瞋などはみなその系列字で、眞の声義を承ける字である。これらの字は、部首法の上からはそれぞれ彳・宀・〓などの部に属し、それ自身の系列を示すことはないが、「建類一首、同意相承く」という転注法によって、その系列を回復する。転注は、部首法の欠を補うものとして、意符的な体系の方法であると考えられる。
2003年●白川静『常用字解』平凡社
同じ音符をもつ多くの字が、その音符のもつ意味と音とを共有するという関係が転注である。
▲白川静の説をまとめると、部首にはない文字の要素が抽象化された意味を含むものを転注といい、その多くは形声字の声符でもあるということらしい。で、そういうものを亦声という。形声字の声符であることが必要条件なのかどうかは不明▼
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