高内一さんは、予科練の生き残りである。
終戦後の1947(昭和22)年に岩田母型の営業部へ入社した。
当時、村瀬錦司さんが岩田母型の技術顧問であり、毎日新聞社の顧問を兼任していた。
毎日新聞社が導入しようとしていたベントン父型母型彫刻機を毎日新聞社で見た高内一さんは、岩田母型の岩田百蔵社長に、ベントンの導入を進言する。
ベントン導入が決まったものの、ベントンで母型を作るには版下が必要だ。
当初、種字彫刻の名人・大間善次郎さんに岩田百蔵社長がベントン用の版下を頼んだが、大間さんは原寸のしかも鏡文字を彫る職人。版下の製作は無理だった。
結局、版下を作れる人がいなかったので、高内さんが作ることになったらしい。
1949(昭和24)年、高内さんは営業部からベントン研究室へ配置転換になる。
本文用明朝の版下は、秀英体を元にした。活版印刷では印刷の圧力でインキが外側にはみ出すので、その分細めに作る。だから清刷を元にするとできたものは太くなってしまう。それで高内さんがやったのは、元になる活字にインキを塗り表面だけを布で拭う。それを写真に撮り、拡大する。それを元に版下を書くという方法だった。
ただし、単純にトレースすれば良いというわけではない。拡大した写真は不鮮明だし、お客様は新しいベントン活字を買って、それまでの活字を捨てるわけではない。多くのユーザーはそれまでの活字にベントン活字を買い足していくわけだ。だから、それまでの活字とウェイトが合っていなくてはならない。
不鮮明な写真を解釈し、古い活字にウェイトを合わせて版下を作るという作業によって、あの名作は生まれたのだ。
もっとも高内さんは、営業マンとして入社はしたが、工業高校の出身でしかも書道の心得があった。それにしてもあの名作を営業マンが作ったとは奇跡である。
明朝体の主要版下は5種類(他にタイプライター用などあり)
〈2”m〉6ポから12ポの明朝体用:秀英体の8ポを翻刻(2インチサイズの版下)
〈2”M〉14ポの明朝体用:秀英体の4号を翻刻(2インチサイズの版下)
〈3”m〉16ポの明朝体用:14ポの明朝体を太くしたもの(3インチサイズの版下)
〈3”M〉18ポから28ポの明朝体用:築地体の2号を翻刻(3インチサイズの版下)
〈4”M〉32ポから42ポの明朝体用:築地体の1号を翻刻(4インチサイズの版下)
ゴシック体の主要版下は4種類(他にタイプライター用などあり)
〈2”LG 〉6ポのゴシック用:秀英体の9ポを細めて翻刻(2インチサイズの版下)
〈2”G〉7ポから16ポのゴシック用:秀英体の9ポを翻刻(2インチサイズの版下)
〈3”G〉18ポから28ポのゴシック用:電胎母型の頃の岩田の3号を翻刻(3インチサイズの版下)
〈4”G〉32ポから42ポのゴシック用:電胎母型の頃の岩田の1号を翻刻(4インチサイズの版下)
高内さんは、上記5種類の明朝体と2”LG、2”Gのデザインに関わっている。
岩田のベントン活字は、秀英体、築地体を元にはしているが、できたものはオリジナルといって良いとおもう。
2008年04月05日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

